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クラシック音楽とその括りに関する考察

投稿日:2016年8月2日 カテゴリ:クラシック

オーケストラでゲームの音楽を演奏する事に対する賛否の記事を読んだ。

頭の固いマニアは、クラシック音楽の高尚さ、アカデミックさ…ばかりを強調する傾向が強い気がする。 クラシック音楽は決して堅苦しい音楽ではない。

昔は貴族や王族しか接することの無かった音楽かもしれないが、だからと言って難解で堅苦しいわけではない。

皇帝だろうが貴族だろうが人間である。 音楽を聴くひとときまで難しい理論で頭の中をいっぱいにしたくは無いはずである。

そもそも音の連なりと響きの混じり合いに難解もクソもあるか!(笑)

細かい事を言えば、例で挙げている「ゲーム音楽を交響楽団で」…というのはクラシック音楽ではない。

それが映画音楽であっても同様である。 これらはクラシックのスタイルを用いた表現方法や演奏形態をとっているポピュラー音楽であると言えるのではないだろうか? 例えばビートルズの「Eleanor Rigby」はクラシックのスタイルを取り入れているが、クラシック音楽ではないと思うし、すぎやまこういちのドラクエの音楽がどんなにクラシカルなスタイルであろうと、それは「クラシック音楽」ではないと、個人的には思う。

しかしながらポピュラー音楽とクラシック音楽の括りに関しては、まるで5次元か何かの話のように説明し辛いし納得もし辛い。

大雑把に言えばポピュラー音楽は民謡などを発端とした大衆の流行歌なんかが大元であると思われるし、クラシック音楽はキリスト教の宗教音楽を構築する際の理論上に発展した音楽であると言える。 既に発展を止めて「伝統芸能」と化した世界の至る所に現存する民族音楽などには、両者の明確な区分けが存在する。

しかし、現在進行形である西洋音楽の軌道上にあるクラシック音楽とポピュラー音楽(ほぼ世界中の現在のポピュラー音楽は西洋音楽を基盤にしている)近現代に近づけば近づくほどに両者は混じり合いぶつかり合うので、単純な説明では片付かない。

もう一つの大雑把な括りは「ポピュラー音楽は商業的なもの、クラシック音楽は芸術的なもの」という括りであるが、これも例外は星の数程あるのであまりに偏狭な区分けと言える。 多くの人は、クラシック音楽とポピュラー音楽について、それぞれ漠然とした音のイメージを持っているかもしれないが、それは100年後には全く別のものになっているだろう。 ビートルズ、ツェッペリン、クリムゾンやマイルスなんかがクラシック音楽として認知されていても不思議ではない。

ヴァイルの「三文オペラ」だって、最初からクラシック音楽という括りを意識して制作されたものとは思えないし、芸術性というよりはポップでキャッチーな面が印象的なレハールの「メリー・ウィドウ」やミンクスの「ドン・キホーテ」なんかも今日では「高尚なクラシック音楽」として扱われている。 話は戻るが、ゲーム音楽やヒット曲などをオーケストラや弦楽四重奏で演奏するのをクラシックとは思うとか思わない…というのは個人の自由であって良いと思うが、それらを聴いて「こんなもんか」ありは「素晴らしい」と満足してしまって、マーラーやショスタコーヴィチ、バッハやバルトークなどの素晴らしい作品に触れる機会が失われてしまうのは非常に残念なわけである。

東儀秀樹のポップな篳篥演奏のCDを聴いて満足し、伝統的な雅楽の魅力を知らないまま終わるのと同じくらい残念である。 人がゲーム音楽などでクラシック音楽や民族音楽などの要素に触れたときに「そこから一歩踏み出せばもっと素晴らしい音楽があるんだよ♪」「だからマニアの人はそれを邪魔するのではなく、ポンと肩を押してあげようよ!」ということを、この素晴らしい音楽に出会った経験者であるがゆえに僕は強く言いたい。

要は、素晴らしいものはすぐそこにあるのに、入り口が見つからなかったり、扉が錆び付いて硬かったりするだけなのである。

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